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僕と千石のつながりを少々【51/100】

僕が千石で暮らすことになったきっかけを与えてくれたお爺ちゃん。
生きていたら、昨日で90歳でした。

川田和夫

僕の祖父は、川田和夫といいまして、
台東区は谷中で生まれ育った下町っこでした。
子どものころは、谷中の路地を縦横無尽に駆け巡っては、
○○のオヤジにいつも怒鳴られた、なんていう話を聞かせてくれました。

戦時中は飛行兵を志願したものの、
入隊検査で「お前のような子どもが来るところではない!」と、
お腹が弱かったという彼は失格の烙印を押されてしまい、
不名誉な思いで帰京したとのことです。

戦後は進駐軍の物品管理の仕事を辞めて
床屋さんで使う道具を卸し売りする会社を創業。
小さいながらも、高度経済成長の波に乗って、
飛ぶように売れたとよく語ってくれました。

初孫

結婚して、4人の子どもに恵まれた彼の、
3女の長男で初孫、それが僕です。
よく可愛がってもらい、幼いころは毎週のように、
千石に泊まりに行っていました。

そう、父が祖父の事業の後を継ぎ、毎朝練馬の自宅から車で通勤していたのです。
僕は、その車に乗せてもらって、一晩泊まって帰ってくるのが楽しみでした。

文京区に住む誇り

祖父は、いつも文京区で暮らしていることを誇りに思っていました。
とりわけ千石に愛着を持っていた彼は、
僕によく、「千石は地盤が頑丈だから、どこよりもいい場所なんだ」と、
鼻高々に語ってくれました。

どこの土地が優れているかは、不動産屋を開業して
5年足らずの僕には語れませんが、自分の住む場所に誇りを持てるということ、
一つの幸せの形なのだと思います。

旅立ち

彼は5年前のある暑い日に旅立ちました。
4人の娘と、9人の孫、1人のひ孫に囲まれて。
末期のガンと必死に戦った末の旅立ちでした。

医師も、家族も、手を尽くした末の、旅立ちでした。
でも僕は、彼が口にしていた「早く、家に帰りたい」という
願いを叶えることができなかったことが、
少しだけ、心の中に残り続けています。

仮に、余命がそれほどないと思われる高齢の末期がんだとわかっていたとして、
医療がするべきは治療の可能性に欠けて手を尽くすことなのか、
それとも、本人の願いと向き合うべきなのか。
お爺ちゃんが残していった問いには、答えが出ないままです。

おばあちゃんのつながりを大切にすべし

「文京区には、まだ魔法使いが住んでいるのです」

という筋書きで物語が始まりそうなまちの友人が、
おばあちゃんとの縁を大切にして、
地域の課題を丁寧に解決していくべし、と、
アドバイスをくれました。

よそ者であるとの思い込み

そうか、僕は練馬区で生まれ育ったものだから、
全くのよそ者であると思っていたのですが、
こうして、不動産屋さんとして、まちのお父さんとして、
地域から受け入れられているのも、
西丸町会で「環境衛生部長」という役職を仰せつかっているのも、
自分の実力でなんかあるわけでなく、
今まで千石を大切に大切に想ってきた祖父母のおかげなのでした。

 

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